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 1

ゴドーを待ちながら (ベスト・オブ・ベケット)

著者 : 安堂 信也,高橋 康也,サミュエル・ベケット

出版社:白水社

発売日:1990-10

評価 :

完了日 : 2007年03月07日

 この戯曲を読み終わって後、すごい事に気が付いた。こんなことをこの場に書いてしまっていいのかどうか、分からない。だが勇気を出すことにする。書こうと思う。
 この戯曲は、この戯曲の中の二人の主人公は、ゴドーを待っている。理由を説明しよう。
 「ゴドーを待ちながら」の主人公は二人いる。一人はヴラジミールで、ディディという渾名で呼ばれている。どうやら膀胱の調子が悪いらしく、作中時々トイレのために姿を消す。このディディがゴドーを待っているということは、言を俟たないと思う。
 もう一人の主人公にスポットライトを当ててみる。エストラゴンだ。渾名はゴゴ、靴の大きさが合わないらしい。ディディがゴドーを待っているのに対し、もう片方のゴゴが何をしているのか。驚くなかれ、なんとゴドーを待っている。注意して読むと、台詞の端々にそれは感じられると思う。
 さて、そんな二人は友人だ。開幕の時から一緒にいる。時代はいつなのか、ちょっと分からない。後に時計が出てくる。時計が発明された後だということは、言えそうだ。時刻は昼間だ。少なくとも太陽が昇っている間のいつかだということは、間違いがない。場所は一本の柳の木が生えている所だ。ト書きによると、田舎道らしい。片やゴドーを待っているディディと、片やゴドーを待っているゴゴとは、そこでゴドーを待っている。
 もちろんただゴドーを待つだけでは、話しが成り立つわけがない。二人はゴドーを待ちつつゴドーを待ったり、ゴドーを待つと見せかけて実はゴドーを待ったり、あるいは、ゴドーを待つ代わりにゴドーを待ったりする。もう少し詳しく観察するならば、ゴドーを待っている間に二人がしているのが、ゴドーを待っていることだというのも分かる。
 舞台が道だから、別の登場人物が通りかかったりもする。ラッキーとポッツォだ。当然色々なやり取りが行われるのだが、字数の都合上詳しくは紹介できない。強いて要約するならば、ゴドーを待つというわけだ。
 もうお分かりだろう。こんなにもゴドーを待っている作品は、他にないのではなかろうか。なにせ待っているのだから、ゴドーを。
 「ゴドーを待ちながら」は、ゴドーを待ちながら読みたい作品だ。ゴドーを待ちながらでしか読めないと言い換えても、過言ではない。そして、「ゴドーを待っているんだな」何度読んでも、そう気が付かされるわけだ。


この感想へのコメント

3.ベアandリーチェ (2007/03/09)
そうですか 正体不明ですか…
神なき時代の神たるもの を 待つ って事ですかね。
ううむ 難解だ。
でも いつか 読んでみたい なんて 思ったりなんかして…
4.dai (2007/03/09)
本文は、しごく読み易いですよ。
解釈なんて人それぞれ。ぜひぜひ読んでみて下さい。

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 1

極北の地にて

著者 : ジャック ロンドン

出版社:新樹社

発売日:2005-06

評価 :

完了日 : 2007年02月21日

 普段は忘れがちだが、ただ生きているだけでも我々は何かを代償にしなければいけないわけで、困ったものだ。現代日本で代償にするものといえば、まぁだいたいが金だ。誰にも迷惑はかけません、ただここにいるだけです。といくら主張したって、払わなければいけないのが月々の家賃だ。世知辛い。どうでもいい話しだけど、「払」うという字と「仏」という字は似ている。じゃぁ家賃だけ払っていれば万事これ安泰かといえばそうではなく、生きていくには食わなきゃいけない。食費が要る。その他、大切な我が身と財産を守ってもらい道路交通揉め事仲裁社会円滑を推し進めるにあたっては、税金というものをば納めなければなず、あっちこっちに出かけたい、ってーじゃぁ勝手にどこへでも行っちまいなというわけにはもちろんいかず、これここに交通費というものが発生し、ともかく世の中、金金金カネ・・・、仕舞いにゃ金を稼がない奴は人間じゃねぇ、エタだヒニンだ間抜けなニートだなどと言われる始末、そこで感じるのは寂寥感だったりする。世の中真心人情一切通じず、流通するのは金ばかり、蛇口を捻れば水は出るが、心の泉は涸れ尽きた、夜のすさびに歌舞映画、酒精の類に慰めを求めても、そこで要るのはやっぱり金だ。いっそ田舎に引きこもり、金とは縁切り暮らそうか、とお前さん、ちょっと待っておくんなさい。ここに「極北の地にて」という本がある。世の無常、じゃなかった無情を儚むなら、こいつを読んでからにしてくんねぇ。そう、言いたいのだった。
 「極北の地にて」は、アラスカを舞台にした短編集だ。全部で七編が収められている。
 「極北の地にて」が曝け出すのは、現代日本では金に隠れて見えにくくなっている真実だ。我々は、生きるために対価を支払わなければならない。これは単純な真実であり、十九世紀のアラスカにおいて支払わなければならない対価とは、金よりも体温だったりする。
 登場人物が隙を見せれば、作者ジャック・ロンドンは容赦なくその取り分を取っていく。そうれはもう借金取りも裸足で逃げ出すような無慈悲さだ。取り分=体温を奪われた者は、文字通り命の灯が消えていく。なくなれば、待っているのは死しかない。
 全編を通して感じられるこの「寒さ」が、物語を比類無いものにしている。人間の都合などまるで構い無く進行する自然、金という緩衝材を抜いて見たその姿が、恐ろしくも素晴らしい。読むと体感温度が五度下がる。
 そしてもう一つ「寒さ」によって際立つのが、人間の悪戦苦闘振りだ。それは哀れで、狡猾かつ間抜けで、滑稽で、しかし全力だ。それ故に、登場人物が生きているだけで、充分物語として成り立っている。見事過ぎる。
 村上春樹御大が、「神の子供たちはみな踊る」でネタにした「焚き火」も入って、二千円ぽっきり!この値段であの「寒さ」が読めるなら、買うしかなかろう。結局金かい。


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 9

さようなら、ギャングたち (講談社文芸文庫)

著者 : 高橋 源一郎

出版社:講談社

発売日:1997-04

評価 :

完了日 : 2007年02月07日

 最近、黒澤明監督の映画「七人の侍」をまた見た。農民達と、その農民に雇われた七人の侍が、野武士の襲撃から村を守る映画だ。
 作中、三船敏郎演じるところの菊千代は、トリックスターだ。出自は農民でありながら、武士として活躍する。農民と武士の間に立つ存在として描かれている。
 農民達が実は落ち武者狩りをやっていたと分かる場面に顕著だ。当然、侍側としては面白くない。「竹槍に追われた者でなければ、この気持ちは分からん」とか言って、村の警護を辞めようかとまで言い出す。その時に、農民の気持ちを代弁するのが菊千代だった。今回は、その場面にビンビン来た。
 もう何というか、三船敏郎の顔と仕草だ。面白い。引き込まれる。何を食ったらそんな顔が出来るのか、分からない。いや、食い物じゃない。ともかく感動させられていた。
 恐らく、台本だけ読んだらそのまま読み通してしまうような場面だ。農民達は狡猾で、老獪だ。だが、そんな農民達を作ったのは侍だ。そういう趣旨の台詞が続く。だが、ここに三船顔が加わると、もういけない。夜中の二時にも関わらず、「かっちょえー」と独り叫ぶ羽目になる。
 で、「さようなら、ギャングたち」だ。
 「さようなら、ギャングたち」は、何が面白いのかさっぱり分からない。「ちゃんとした」ストーリーなんて、あって無きが如くだ。だが、極端に面白い。何故か。
 「七人の侍」に三船顔があるように、「さようなら、ギャングたち」には源一郎言葉があるからではないか。と、愚考した。
 例えば「さようなら、ギャングたち」を映画化したとして、多分面白くはならない。何故ならそこに源一郎言葉がないからだ。「七人の侍」の台本に、三船顔がないようにだ。
 源一郎言葉でもって書かれた「さようなら、ギャングたち」には、言葉を読む楽しみが濃縮されている。どの文を取っても、「おばぁちゃんの家の裏庭からもいできたトマト」のように新鮮で、滋味豊かだ。「あらすじで読みたくない日本語」第一位だ。えーと、後何だ、小説じゃないと駄目な小説であって小説の小説たる所以を小説でもって燦然と知らしめている小説だ。
 そして毎度毎度読む度に、夜中の二時にも関わらず、「キャラウェーイ」と絶叫する羽目になるわけです。


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