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フィリップ・まろさんの読書ノート

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 1

痴呆の母を看取って

著者 : 舛添 要一

出版社:佼成出版社

発売日:2001-06

評価 :

完了日 : 2008年12月03日

舛添要一氏が厚生労働大臣の地位にいることが僕には大いに納得ができるのである。適任者だ、と僕は確信する。

僕は、認知症対応型共同生活介護の施設、いわゆるグループホームに勤める職員である。
また自分の母親が認知症であり、在宅で介護をしている。

介護がもっかの僕の生活の8割方を占める。
時として、とてつもない閉塞状態に陥ることがある。
バーンアウト・シンドローム。燃え尽き症候群に気が塞ぐことがある。

でも良くしたもので、僕は文章による自己表現が好きで、そうすることで閉塞状態から脱出する術を心得ている。

逃げ道を持ち、解消法を身に付けている僕は幸運である。卑近な言い方をすれば、まだまし、だ。

問題なのは、そうではない、僕なんかより、ずっと大変な状況にいて、自己の生活の中で逼塞している人がいる、という事実だ。日々の生活に埋もれて酸欠から窒息しそうになっている介護者がいる、ということだ。

舛添要一氏はそうした日々を身をもって体験されている。
テレビ画面で見ていた氏の倣岸で不遜なイメージからは想像もできなかった。あの視聴者をにらめつけるような眼光鋭いカメラ目線の陰でとてつもない介護生活に身を投じていたのである。

舛添氏の著作『母に襁褓(むつき)をあてるとき』は実姉との間の、母親の介護をこえた闘争の日々が書き綴られていた。暴力でもって母親介護の覇権を奪い取ろうとする実姉夫妻。それは決して母親を愛するがゆえの行為ではなかった。お金が目当てだった。身内にそんな肉親が存在することを知った時の衝撃はどれほどのものであろうか。また暴力で脅しかけてくるのが親族であると言う事実の悲しさ、くやしさ。許されるまじきの所業である。そんな闘争の日々が書き込まれていた。

『痴呆の母を看取って』はその後の舛添家、そう母親の死までの述懐の書である。

介護真っ最中の頃の舛添氏が一介護者として厚生労働省へ訴える諸問題。身をもって知った介護上の問題点が幾つか上げられている。そしてそれらの著者による実体験から見た問題点、成年後見制度や介護上の諸手続きのことが厚生労働大臣となった舛添氏の手で現在整理されようとしている。

介護の現場を知らない者が決めた制度に穴があるのは当然である。東京大学を出たエリート集団が考え出した制度は机上の理論であり、言葉上の整合性のみに走っている。現場を知らない彼らが考え出した制度の隙間や繋ぎ目に、考えられないような不都合が如何にたくさん存在することか。

舛添要一氏はそうした制度の間隙を見据えてきた。氏はそれらを整理化した文書に纏め上げる能力を有する。さらにそれを現場に移す実行力に溢れている。
僕が舛添氏を厚生労働大臣として認める所以がここにある。

何より嬉しいのは2009年度の介護保険法の改定では介護士の収入増を明言してくれたことだ。基本給15万から20万でどうやって家庭を維持して行けと言うのだ。これでは若者の就職率が極めて低く、離職率が恐ろしく高いのも誰が考えても当然だ。

話を本書に戻そう。

介護をする、ということは要介護者の生活暦を知っていなければならない。過去にどんなことがあったのか。どんな病気やけがをしたのか。そのとき要介護者がどう思ったのか。これは介護上重要なポイントである。生活暦のなかで要介護者が感じたことに共感し、価値観を共有することで確固たる人間関係が成立する。ここまできたら介護は楽である。一般的には。一般的には、と限定したのは、外部的にはそうであるけれども、内部、つまり、こと自分の親となるとそうでない場合もあることを僕は知っているから。
まあ、しかし、共感はするべきだな。自分に共感してくれる者に敵意を抱く人間なんて存在しないし。

いかん、いかん。どうしても僕は感想や評論が極私的エッセイに走ってしまう。

本書は認知症の母親を知ることから端を発して、舛添家の歴史を紐解く作業にまで進展している。
そこまでしなくても、との意見もあろう。
でもそこまですべきなのだと思う。
介護の終着駅はターミナルケアだ。終末介護だ。
ひとりの人間の人生が終わろうとする今、その人の歴史を紐解き思い出してあげるのは残された者の役割だと思う。
ただそれだけを教えてくれた1冊。
それでもそのことの意義の深さと大切さに、僕は充分に☆5つの価値はあると判断する。


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 1

宇宙の片隅で―石垣りん詩集 (詩と歩こう)

著者 : 石垣 りん,水内 喜久雄,伊藤 香澄

出版社:理論社

発売日:2004-12

評価 :

完了日 : 2008年12月01日

盟友KUMIさんのオススメで手に取った詩集。

石垣りんのことは30年ほど前から知っていたけど。

当時は生活に若干の余裕があった僕。

習っていた茶道の師匠が好きだった詩人。

これが石垣りんとの出会い。

誰にでも拘りがある。

僕は変質的な名称マニア。

人名にも拘る。

石垣りん。

こりゃあ、ベスト10に入るな。

ネーミング大賞文化人部門ではベスト3圏内かも。

ところが、僕は石垣りんの「表札」に感心するばかりで。

門をくぐることも無く30年。

門の前で永らく佇んだままの僕。

背中をポンと押したのがK・U・M・I。

ローマ字の暗号が『30年のためらい』に決心を呼びさました。

『宇宙の片隅で』詩人の「おやすみなさい」に僕は30年分の「おやすみなさい」


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1.KUMI (2008/12/01)
「すんごいもの見つけたよ」と持ってこられると
手のひらに収まるくらいの『すごいもの』

父はニコニコしてたけど、おおよその予想はついていたんだろうな。
(大体、巨大ダンゴ虫。)
でも、見せたい人がいるって幸せな気分♪

忙しいのに、読んでくれてありがとうね☆
冬でも、心はポカポカです♪
2.フィリップ・まろ (2008/12/03)
冬だからこそポカポカする心を感じたいですよね。
ryouさんが最近、めったやたらと月や星の話をするのですよ。
彼も夢の50代が近づいて僕のような浪漫派の心に目覚めてきたようです。
男は45を過ぎた辺りから、何故か少年の頃の自分が再び顔を出し始めます。
本当に巨大ダンゴムシを見せられたら「スッゲー。カッケー」と突付きまわすと思います。
 

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 1

風のガーデン

著者 : 倉本 聰

出版社:理論社

発売日:2008-09

評価 :

完了日 : 2008年11月28日

3週間前だったかと記憶する。
何気なくテレビのチャンネルを回していた。
いいや、チャンネルを回すことはもはやできない相談か。
リモコンを所在無くプチプチ押していた、というのが正しい表現だな。

そしてとある番組のあまりにも美しい風景に囚われてしまった。

名前も知らない、見たことも無いとても綺麗な花の群落が畑のそこここにあった。

そのお花畑で少年が男性と出会う。
少年はいきなり、
「あなたは大天使ガブリエル様ですか?」
と尋ねた。
男性は、はっとしてうろたえながらも、
「そうです」
と答えるのだった。

僕の耳目はテレビ画面に一気に吸い寄せられてしまった。
僕はその瞬間『風のガーデン』の中に立っていた。

こうして日常の会話としては信じられない二人のやり取りに立ち会ってしまった僕はもはや『風のガーデン』から逃れる術は無かった。

大天使ガブリエルと称する男性は白鳥貞美役の中井貴一。
男性を大天使ガブリエルと勘違いした岳少年は神木隆之介。
二人は父子関係にあるが、父である貞美は昔、妻子ある身で不倫をしてその父親である緒方拳扮する白鳥貞三に勘当されていた。

白鳥岳少年は知的障害者であるが、記憶力が抜群だ。姉の白鳥ルイが経営する風のガーデンにある草花の名前を全て覚えている。そればかりではなく、その花言葉まで記憶している。
ただしその花言葉は祖父、白鳥貞三が連れ合いを亡くした心の慰みにオリジナルでこしらえたものばかり。貞三の主観がもろに入っている。だが所々で岳少年によって挿入されるこの花言葉が物語の好い隠し味になっている。

白鳥岳少年が顔さえも覚えていなかった父親と再会して大天使ガブリエルだと勘違いしたのにはわけがあった。
この出会いのすぐ直前に養蜂家のあんちゃんと大天使ガブリエルがガーデンの番人であると話していたところだったのだ。

岳少年と大天使ガブリエルの出会いからテレビを見出した僕には経緯が解からなかったが、シナリオを読んで納得した。

それにしても、風のガーデンでの大天使ガブリエルと岳少年の邂逅の場面は僕には衝撃的だった。虜になった。

麻酔科医として東京で成功を収めた白鳥貞美は、一方では不倫の果てに妻子のいる富良野から父、貞三に追い出された人生の失敗者である。

貞美が末期的膵臓癌であることが発覚し、身を隠しながら富良野に帰ってくるところから物語りは滑り出す。

緒方拳の扮する白鳥貞三は富良野でターミナルケア(終末医療)の専門医をしている。彼は息子の貞美の終末を看取ることになる。辛い設定である。
さらに視聴者はその白鳥貞三役の緒方拳さんの撮影当時の身の上を知っているからより一層作者が伝えたかったことがストレートに胸に響いてくる。

僕は『北の国から』が大好きである。シナリオは全巻読んだし、もちろんビデオも全部観ている。

『風のガーデン』と『北の国から』に共通して言えることは、倉本聰の、今という時代を捕らえる感覚の鋭さ。時代を超えた普遍性を見出す確かさ。不易流行をうまくミックスして視聴者に提供する巧みさ。そのあたりに僕は成功した人間ドラマの成立をみる。

熱っぽくなりすぎて、感想がうまとまらない。
『北の国から』は僕にとってそういう存在なのだ。
そして『風のガーデン』がそれに加わった。


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6.フィリップ・まろ (2008/12/03)
うーむ。僕はへたをすると1ページを読んだ感想を書くのに2ページ分の文字数を費やしてしまう。その昔、男のおしゃべりはろくな奴じゃない、などと言った差別用語があった。現在、男の書き過ぎはろくな奴じゃない、なんて言葉が市中に出回らないことをただただ祈るのみであります。大天使ガブリエルが僕にキーボードを叩かせているのです。書きすぎの訴追は神への反逆行為になりまする。人間まろ兄ィの与り知らぬことで御座る。
7.ryoukent (2008/12/04)
まろさんの『痴呆の母を看取って』を数えた。
1700字超えだった。

Tetchyさんは1900字を超えているのがあった。
彼は平均でも1500を超えていると思う。
仮に300感想あるとしたら 1500×200=300000字
原稿用紙750枚! 

わたしは目標を2000字においてチェレンジしてみよう。
でも たなぞうくんは 受け付けてくれるかなあ。

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 1

母に襁褓をあてるとき―介護 闘いの日々

著者 : 舛添 要一

出版社:中央公論社

発売日:1998-01

評価 :

完了日 : 2008年11月25日

「介護 闘いの日々」とのサブタイトルに、介護者と要介護者の間の日々の闘いが書かれている本だと思った。
そうではなく、親族間の闘いの模様が赤裸々に語られている本であった。
舛添要一氏の実姉、ここでは仮にA子とされている人物とその配偶者による暴力的言動に戦々恐々としながらも母親を遠距離介護する舛添夫妻。
実の兄弟姉妹の間でさえこんなことが起こるのだなあ、と他人事みたいに考えながら読んでいた。
が、考えてみたら、僕自身、自分の母親の介護の件で上の実姉一家と絶縁していることを思い出した。2年ほど前の話だ。
舛添家の場合、世間体とお金の問題がその主たる原因であった。僕の場合は、介護への参加と協力を要請したところ「それはできない」と言うから、こっちから絶縁してやった。
人間、追い詰められると本性が出るものだ。僕は追い詰めたつもりなど無かったけれど。預かってもらえないと決まったからには僕は次の手を考えなければならなかった。僕にはいつまでも最低な人種と関わっている暇など無なかった。
舛添家のケースでは実姉とその連れ合いがヤクザみたいにたちが悪い。我が家の場合、ヤクザみたいに振舞うのが僕であるから、縁を切ったって何ら問題はない。僕が手出しをしない限り、アクションを起こせるだけの力量のある姉夫婦ではないから。それでも、ほんの1週間だけ母親のめんどうをみて下さい、との僕のお願いに対してにべもない返事をするその心情の卑しさが僕には許せなかった。僕とは腹違いの姉ではあるが、僕の母には随分と可愛がられて育ってきたと自分で言っていたくせに。それがこのざまか。人倫に悖る行為に対して僕は容赦の無い男である。
まだ厚生労働省の大臣はおろか、国会議員にもなっていない頃の舛添氏の家庭でのできごと。だがこれは特殊な例ではない。現に我が家がそうであったように、どの家庭でも起こり得る問題である。
介護は家庭をいともたやすく崩壊させてしまう。しかし介護は成功するとそれまでにはなかった新しい形の人間関係を形成してくれる。
介護を喜びにするのも地獄にするのも心の持ちよう一つなのかもしれない。


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12.フィリップ・まろ (2008/12/03)
わが施設の主任もそう言ってたね。この8月のように正職員は11日も夜勤があったりしたから、自宅の雨戸がずっと締まりっぱなしだったそうな。心配して近所の人が様子を伺いに来てくれたとか。変死体となって発見された、なんて事件が多いから。
シフトの終了時間からは体を休めるのが仕事、と自分に言い聞かせながらできるだけ早く帰ることにします、はい。
13.パル2パパ (2008/12/03)
まぁ、僕も日頃から近所の方々(犬飼いから金棒引きまで)ヘルパーの仕事をしているので朝早かったり夜遅かったり、昼間は寝てますって会話をしてるので、そうなったら多分騒いでくれると思いますが。
サービス残業は事業所を助けても、自分は助けてくれないからね。最終的には、自分の躯は自分で守るしか無いんですよ、はい。

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 1

かーかん、はあい 子どもと本と私

著者 : 俵 万智

出版社:朝日新聞出版

発売日:2008-11-07

評価 :

完了日 : 2008年11月25日

歌人、俵万智の子育てぶりが窺われる。

子供に本を与える。それは、疾病におかされない頑健な肉体を作り上げるために与えられる普段の食事に匹敵する行為であると思う。
子供は本を読むことで、人を信じたり、想像力を膨らませたり、夢を描いたりする。人の痛みを自分のものとする能力を身に付ける。
本を読むのは心が食事を摂っている状態なのだ。幼少期からたくさんの心の食事を摂り続けてきた人は大人になって強靭で優しい、他者に対する思いやりの深い、浄土真宗でいうところの「妙好人」になるのだろう。

幼い子供の親は誰でもわが子にそんな人になって欲しくて本を読み聞かせる。本を与える。

大袈裟ではなく、国づくりの基本は子育てにあると断言できる。

子育ての中心的位置にいる母親に日本の将来がかかっているのである。

というのは無責任な男性的意見か。
ここは父親にも是非とも登場して頂こう。子育てに頑張っている母親を全面的にバックアップする義務が父親にはある。

ところが事情によっては片親で子育てに精を出さなければならないことだってあるだろう。著者である俵万智自身がそうである。また、どこかではお父さんが一人で頑張っているということも。

でも、きっと大丈夫。
あなたのお子さんは、人生の一等最初の部分で出会った最も身近な自分以外の人、つまりあなたに深い思いやりを持つに違いない。そうやってあなたが親として子供とともに同じ年譜の上を育っていく姿を示し続ける限り。

いかん。説教臭くなってしまった。

『かーかん、はあい』にはそんな説教じみたお話はこれっぽっちも無い。

著者と幼い実子の、絵本との出会いから、付き合い方が書かれている。

このあたりで普段の自分の語り口に戻してしまうけど、僕も子供には読み聞かせをしたものです。
ただ僕の場合、自分の興味が優先されるから、幼い子供が『発作的座談会』や『岳物語』を読み聞かされる。迷惑な話かもしれない。かくしてうちの子供たちは突飛な発想と常識に弱点を持つ少し歪な大人をめざして驀進中である。もはや親である僕の与り知らぬことである。ほっとこ。どこかで自分なりに軌道修正することを祈りながら。

この本では随所に俵万智の短歌が差し挟まれている。
僕が気に入った一首を紹介しよう。

 子を真似て私も本を噛んでみる確かに本の味がするなり

解るなあ。

最後に割りと気に入っている僕のことば。

「本と遊べ! 風に学べ!」


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 39

くちぶえ番長 (新潮文庫)

著者 : 重松 清

出版社:新潮社

発売日:2007-06

評価 :

完了日 : 2008年11月17日

雑誌『小学4年生』に連載されていた小説に加筆修正したものという。

こんな素晴らしい小説を読めた小学4年生は幸せ者である。
大人の僕が読んでも充分に幸せになれた。

「『番長』とは、平安時代、中衛府、近衛府、兵衛府、などの舎人の長をつとめた者のこと」である、と立原正秋はその著書『美しい城』に書いている。

『美しい城』は世俗の価値観から遥かなところを生きる勁直な非行少年の物語である。

大きく趣を異にするが『美しい城』の主人公と『くちぶえ番長』の番長の生き方には多分に共通点が窺われる。

さらに僕ら中高年世代のマンガ読者であれば思い出すのが『夕焼け番長』だろう。

『夕焼け番長』の主人公は三度の飯よりも喧嘩好き。しかしその苛烈なまでの戦闘意欲が、夕焼けを見ると失われてしまう。なぜなら、番長の両親は夕焼けの鮮やかな紅色の空の下で亡くなったのである。

『美しい城』『夕焼け番長』そして『くちぶえ番長』に共通するのは、決して弱いものいじめをしないこと。
権力に対する反抗が自らの体を張った美しい暴力に転化されること。

だから僕ら平凡な小市民的少年はいつも「番長」に憧れるのだ。

『くちぶえ番長』の異質性は番長が少女である点だ。
重松作品にはたびたびこうした凛冽な精神を持った少女が登場する。
他に惑わされない硬質でいて柔軟な精神の少女。
かっこいいのだが、大人の目をして見つめると痛々しくもある。
ただ彼女たちは大人のそんな視線なんて自分を甘やかす好ましくないもの、と捕らえているようだ。

早逝した父から番長になることを宿命付けられた少女、マコト。彼女はツヨシの学校に転校してきた。ツヨシの父親とマコトの父親は小学生時代「ちびまる子ちゃん」でいうところの大野君と杉山君のような関係であった。
たった1年きりの友情であったが、番長マコトのやんちゃぶりや、出会いと別れの模様が実に印象深い。

世のしがらみや、仕事上の行き詰まり、人間関係に疲れた大人に読んで欲しい。無邪気の中に邪気を含んだ、見た目は純粋で、実はちょっぴり不純物の混じった少年少女時代にに立ち返らせてくれる作品である。


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16.フィリップ・まろ (2008/12/03)
1等星>2等星です。さらに-1等星>1等星です。
あの等級が低い方、木星ですか。
夜空って眺め上げていると飽きないよね。
獅子座流星群の降る夜、僕は庭にある木製ベンチに寝転がって、1時間以上も天体ショー眺めていたものです。
こう見えてわりとロマンチストです。
17.ryoukent (2008/12/03)
ロマンチックまろ兄い こんばんは
たぶん2等星が木星でしょう
でも、今夜は月は見えるけど1等星も2等星も見えない。
なんだか少しさみしいですね。

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 2

冒険王・横尾忠則

著者 : 横尾 忠則

出版社:国書刊行会

発売日:2008-09

評価 :

完了日 : 2008年11月16日

ネットで市立図書館の新刊案内のページをぱらぱらと繰っていて見つけた本。
さっそく予約を入れて引き取りに行きました。

率直な感想を申しますぞ。

スッゲー本だ!

解説の荒俣宏は「これは図録ではなく、図鑑だ」と書いていた。
同感。

Y字路。

天才・横尾忠則の表現のモチーフ。

どちらの道を選ぶか、なんて単純な問題ではない。

Y字路に横尾は女性の陰部を見たのではないだろうか。

一本道から来て、二股に分かれた道のどちらを選ぶかじゃなくて、Y字路の真ん中に建つ建物の中から出てきた、というのが僕の見解。

男性はY字路の真ん中に屹立するスイートホームへの回帰を願う。

女性はY字路の真ん中に建つ家に灯りをともしてやってくる男を待つ。

あっ、これ、僕が勝手に言ってるだけだから、ね。

他にもたくさんの作品が収録されている。「図鑑」としての整理番号をあたえられて。

心ざわめく作品群です。どの作品を見てもそれについて何か語りたくなる。

天才・横尾忠則に寄せる短歌。

  退屈でちびった真の言葉より心ざわめく与太を訊きたい

評価は…やめとこ。相手は天才だもの。


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4.オヤオヤもんど (2008/11/20)
横尾忠則さんと出会って人生が変わったと言う人は、デザインとか美術とかの世界の他にも多いですよね…(ワタクシもそのひとりかもしれません)いつの頃の横尾さんに出会うかで、入り口も違いますからねぇ…(ワタクシは図書館で作品集を見てからでした、でも、気がつかないうちに見ていたんでしょう)エッセイ集や対談集も読みました。
5.フィリップ・まろ (2008/11/20)
美術評論家の書く文章ってよくわからんなぁ。
この『冒険王』にもたくさんの論評が載せてありますが、僕にはどーも良くわからない。
多分原因はあまりにも奇抜な言葉を詩的に重ね過ぎてしまって、かえって印象が薄くなってしまったというところかな。
決めゼリフは少ないほどいい。
インパクトが強くなる。
言葉を積み重ねることで成功した作家は開高健くらいのものである。
しかし素人が文豪の真似をしたところで火傷するのがオチだな。

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 101

チーム・バチスタの栄光

著者 : 海堂 尊

出版社:宝島社

発売日:2006-01

評価 :

完了日 : 2008年11月15日

おもしろい小説が読みたい、と思って手を出した作品。
世間様からは相当に遅まきながらの読了です。
エンタティメント性から言ったら☆5つをあげることになるな。
「この先、どーなるの」ってページを繰るのがもどかしくなるくらいに、次のロジックを求めてしまったよ、僕は。

2006年度『このミステリーがすごい!大賞』受賞作品。

「医療過誤か殺人か、不定愁訴外来担当の万年講師と厚生労働省の変人役人が患者の死の謎を追う」

と帯に書いてある。

作品の梗概はこの2行で充分でしょ。

それでは、僕の極私的感想見解主張意見述懐考察研究発表思索創造空想をちょちょっと書きましょうか。

まずはタイトルにシビれた。

『チーム・バチスタの栄光』なんて、かなりのコピー名人でなきゃ、出てこないね。
海堂尊は『このミス大賞』に応募したとき『チーム・バチスタの崩壊』としていた。
『崩壊』じゃあ、小説のストーリーそのまんま。せっかく『チーム・バチスタ』なんて魅力に満ちた固有名詞を引っ張り出してきたのに、平凡な、どころか、陳腐なタイトルで終わっていた。
『チーム・バチスタの栄光』としたところに物語の暗示性が窺われ、『栄光』の後にはほっといても、挫折なり、凋落なり、崩壊なりが見え隠れする。
僕は、タイトルを含めて、内容を修正させた編集者の慧眼に脱帽する。

もう一つのこの小説の成功の鍵。
神経内科の不定愁訴外来、蔑称『愚痴外来』の田口センセと厚生労働省大臣官房秘書課付技官の白鳥圭輔のコンビネーション。聴くことが専門職の田口と話すことでロジック・モンスターぶりを発揮する白鳥。
この関係性って、ミステリーの超古典的手法だよね。
ワトソン君と名探偵ホームズじゃないの。
バチスタ手術の専門性に置いてけ堀を食いたくなくて、必死で小難しい医療用語に付いて行こうとする読者は、そのあまりに、超古典的関係性の成立を見逃しがちである。って、僕だけかなぁ。

最後になりましたが、TVドラマを一度見て、これが面白くて、こりゃ、原作を読まなきゃ、と前のめりに突っ込んでいったわけです。

伊藤淳史クンのファンです。『海猿』『電車男』『ちびノリダー』『内藤大助物語』何故か僕は彼から目が離せません。


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25.フィリップ・まろ (2008/11/24)
キーボードにサランラップをかけるんですか。
「使い終わった後は必ず冷蔵庫に」とか「賞味期限は11月24日まで」とか注意書きがありそうだな。古くなったものは燃やせるゴミの日に出す、か、或いはご家庭のコンポストに処理してよく攪拌すると1週間で質の良い堆肥ができます、なんてね。
このはちゃん、一度やってみては。とryouおじさんがゆってました。(しーらない)
26.ryoukent (2008/11/27)
なぜか Keyboard が堆肥になってる。
わたしはそこまでは言ってないけど、まあいいか。
ほんとに堆肥になるならそれはそれで良い事です。
思い切り こーひープププッ ができますものね。

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 1

小説 中江藤樹〈下巻〉

著者 : 童門 冬二

出版社:学陽書房

発売日:1999-04

評価 :

完了日 : 2008年11月11日

下巻未だに72ページのところですが、まだまだ、藤樹先生は僕が思っているような理想を現実化した処士には成り得ていません。
僕がまだ認めてはいない藤樹先生にも、それでも門人が数人できました。
僕には彼ら門人の健気なほどに一途な師匠への思いのほうが魅力的です。
さあ、今後どのように藤樹先生は処士へと変貌を遂げてくれるのか。

さて、ここで発表であります。
個人的広告であります。
12月号『公募ガイド』にいよいよ僕の受賞作が全文掲載されました。
また、同時掲載として、滋賀県高島市の『広報たかしま』11月1日号にも取り上げられています。
読んでみてください。


月日は光陰矢の如く過ぎ去り晩秋。二つの季節が鬩ぎ合い、時によっては冬の気配が街に満ち溢れてきた11月25日。今日ようやく読了しました。

わかりません。わからない。藤樹先生の偉いところが。
それこそ僕は自分のことを、儒教的精神旺盛な現代人だと自己判断、自己分析をしている。お世話になった人、知遇を得た人には必ずや信と礼、義と仁でお応えしようとする者である。
従って、童門冬二さんをはじめ、高島市の皆さん、が尊敬し、敬愛してやまない藤樹先生のことをもっと知りたくて『小説 中江藤樹』や『マンガ 中江藤樹』を読んだ。儒教的精神を発露して。
でも僕には童門冬二さんの名著『小説 上杉鷹山』で受けたあの大きな感動が伝わってこなかった。

中江藤樹。確かにすごい人ではある。
江戸時代初期。士農工商の身分制度が確立し始めた時代に、武士の身分を捨て、中国に存在していた処士という身分を日本で最初に導入した偉人だ。
「権力のもとめるききわけのいい人間」と「権力に対抗し、自主性をつらぬく人間」の存在。
しかしその処士という身分は広がってゆくことは無く、つまり藤樹は最初で最後の、日本でたった一人きりの処士となった。
処士とは、ある程度の生計の源があり、諸国を歩いては自分の学説を唱える。受け入れられないときには自宅に帰って、そこで地元の有志に学問を教える、という極めて自由な存在の人である。
僕だって、資力があれば、一番自分に向いている職業だと考えてしまう。藤樹先生に較べりゃ、その資格も精神性も学力も無いに等しいのだろうけど。

権力に対抗し、自主性をつらぬきながらも孤高狷介にならず逆に共感者を増やしてゆく存在。
ここまではいい。僕も理想とする存在だ。
しかし、なぜそんな立派な塾であるのに後継者も、そこから傑出した人物が出なかったのかもが気になる。

と、名も無き読書人である僕が「近江聖人」と呼ばれ現代も崇められている中江藤樹を批判したのは無知のなせるわざであろう。
これからも僕は藤樹先生の足跡を追ってみようと思う。それこそが僕の儒教的精神の発露であるのだから。


この感想へのコメント

14.ryoukent (2008/11/18)
はっはははのは
>使い捨てタイプ っての面白いっす。

こんなことなら賞金欲しさに売り渡さずにインゼー狙いにするべきだった ってわけにはいかないよなぁ。
15.フィリップ・まろ (2008/11/25)
下巻を読了しました。
結局、僕には藤樹先生の偉さが読み取れませんでした。
それなりに魅力は感じましたが、僕らしい、怒涛の急接近、を呼び覚ますまでには至らなかった。
しかしこれは僕の浅学無知のなせるわざかも知れないので、今後もっと藤樹先生に関心を示し、機会あれば他の資料も読んでみようと思います。
「近江聖人」中江藤樹を追う宣言をここに「鈴鹿星人」フィリップ・まろでした。

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 9

小さき者へ (新潮文庫)

著者 : 重松 清

出版社:新潮社

発売日:2006-06

評価 :

完了日 : 2008年11月07日

表題作を含めた6つの短編集。
全部良い出来でした。
的が絞られていて問題意識がはっきりとしていたので、短編の割りには入り込みやすかった。

「海まで」は都会で家庭を持った息子と田舎で独居の老母の間近に迫った遠距離介護の問題が良く描けていた。老母と孫のすれ違いとふれあいが感動的だった。老母の生まれ育った場所をめざす自家用車での短い旅での一家の会話と思い。家族のあり方を考えさせてくれる秀作だね。

「フイッチのイッチ」は離婚から母子家庭となってしまった少年と少女二組の家族の話。まだ知り得るはずも無い大人の事情。そこにまで考えが及ばない少年は少女のアドバイスを受けながら、父親と母親を引き合わせるための作戦を練る。この少年のように無知で無邪気で単純で素朴であれば、世の中の揉め事の大半は無くなるであろう。だが、誰に少年の行動を「無駄だからやめなさい」と言えるだろうか。

「小さき者へ」僕が一番気に入った作品。引きこもりの息子に、夜毎にパソコンで手紙を書き綴る父親。しかし、書き溜まるばかりで、一度としてプリントアウトして息子に手渡したことが無い。息子に宛てて書き続けてきた手紙が、或る日、自分の過去に戻る。自分の少年時代。少年と同じ頃の自分と父親との関係。エピソードとして挿入されるビートルズのナンバーに、年輩の読者は自分の青春時代を思い起こすだろう。そしてあの頃の自分と父親との関係にまで思いを馳せることになる。胸に沁みました。

「団旗はためくもとに」これも好きな作品だな。大学時代、応援団長をしていた父親と、突然、高校に通い続けることに意味を見出せなくなり、自主退学しようとする娘。父親と年頃の娘(「年頃の娘」っていったい何だ! いかん、ここで語義に引っかかっていては話が進まない。考察断念。)の関係性がよく描けていた。
世話になった先輩の手術を影から応援し、零落しつつある応援団時代の後輩を応援し、娘の門出を応援する元・団長の父親。誰かに応援されているって、こんなに心強いことは無い。僕はこの父親にエールを送りたいね。

「あおあざのトナカイ」は脱サラして古い商店街で宅配ピザ屋を始めたものの、経営能力の無さから店を閉めてしまった男の物語。妻は子供をつれて実家に戻った。実家の父親の口利きで夫が新しい仕事につけるようにとの配慮からだ。妻の気持ちは解っているものの立ち上がるきっかけが掴めずに自宅でぼんやりと過ごす男。そこへ商店街の会長の死去の知らせが届く。男のピザ屋のあとはケーキ屋になっていた。夢を抱いて店を開く店主の家族を暖かく見つめることで立ち直りのきっかけを掴み始める男に、「立つんだ、ジョー!」と声を掛けました。

「三月行進曲」これはいまいち解らんなぁ。少年野球チームの監督と3人の野球少年の話。問題を抱えた3人の少年を春の甲子園大会の開会式に連れてゆく。「それで」と冷たく詰問されると、返答に困るよ、僕も。でもこんな大人が世間にはいなくちゃいかん、とは思うね。落語に出てくる、何かというと問題を解決したがる長屋の大家さんみたいな。

最後に、この文庫本の解説を「作文家」と称する少女が書いている。うまいなぁ、解説。でも相当に編集者の意志が働いている文章であることが解るね。
子供を甘く見るつもりは無いし、「スルドイ!」と感嘆させる子供も稀に見かける。でもなぁ、ジュブナイル小説の解説じゃないんだから、ちょっと気になるね。

なぁんて、珍しく今回は書評らしいことを書いてしまった。
でも、やっぱりこういうの、僕には似合わんよなぁ。


この感想へのコメント

1.ryoukent (2008/11/07)
まろさん
この本未だ読んでないよ。
そしてまろ兄いが☆5つ付けるなら、こりゃ読まんわけにはいかんぞい。
特に最後の 解説 は気になるね。
2.フィリップ・まろ (2008/11/11)
小説を読んだぞーって感じさせてくれる作品です。
最後の、少女が書いた解説は、大人の心をざわめかせてくれます。しかしそのことが返って、編集者の思う壺だということが見えてきて、せっかくのざわめきも、萎えてきてしまうのです。「作文家」はわりと気に入った肩書きです。僕は30代の頃、おかしな連中と「石薬師作文の会」なるチーム・バチアタリを組んでいました。
 

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小説 中江藤樹〈上巻〉

著者 : 童門 冬二

出版社:学陽書房

発売日:1999-04

評価 :

完了日 : 2008年10月31日

ここは道義上外せないでしょ。
童門冬二さんの作品は『小説 上杉鷹山』を読んで痛く感動したけれど、わざわざ中江藤樹にまで行くことは無いよな、なんて考えていた。
あれっ?
考えていた、は嘘だ!
考えてもみなかった、のほうが正確だね。
有態に結うと「念頭に無かった」。これだね。

上杉鷹山は、かのJ.F.ケネディが、日本人で最も尊敬している人、として公言していた。
財政的に倒壊寸前の米沢藩の灯火となり、主君自らが質素倹約と新しい産業の勃興に立ち上がる。何事をもってさえも率先垂範した名君である。

対して中江藤樹は歴史の教科書で名前くらいは覚えたけれども、急行に乗った僕にとって、勢い良く通り過ぎてしまう各駅停車の駅みたいな存在であった。

それがこの秋、ちょっとした縁ができた。
以来、中江藤樹は僕にとってエポックな存在である。
童門先生には「忍びざるの心」と書かれた色紙まで頂いちゃったし。
四書五経を重んじる僕だ。恩には必ずや報いるのが我がハードボイルドな生きざまというものである。

上下2巻の上巻である。
中江与右衛門、後の藤樹、の学問に対する姿勢には頭が下がる。
頭は下がるが、手は上げたくなる。
ちまちましたことに拘り、猜疑心が強く、はっきりと言って、いけすかん。
一読者の僕がこうなのだから、藩の武士たちの中にも与右衛門の存在を疎ましく思うものが少なからずいる。

どうも武士の風上にも置けん男だ中江は、って僕は武士じゃないのだけれど。
武士じゃないけれど、なんちゃって、とは言え、マス・オーヤマ・カラテスクールの門人ではあったので正拳中段突き一撃でぶっとばしたい存在だ。

上巻の最後の20ページまでのところ、僕は中江与右衛門が好きではなかった。

しかし上巻最後の「大洲城大講義」の章は圧巻であった。彼の学識の深さを見直した。
郡奉行であり学者である若き中江藤樹が初めて主君の前にて藩士を集合させて開く講義には心打つものがあった。

学問は何のために行うのか。

誠意。
正心。
修身。
明徳。
格物致知。

要するに、学問は天下泰平の為に行う、と解くのである。

実に立派な講義風景であった。

でもその立派な講義をする講師が上巻における中江藤樹じゃ、誰も彼の言葉を心の奥深くに落としこみゃしない。

下巻では期待しているよ、藤樹先生!


この感想へのコメント

3.ryoukent (2008/11/03)
フムフム

するってぇと☆評価は下巻読んでから という事でござんすね。

もしも手持ちの読む本が無くなったら・・・
それはわたしも、想像するだけで怖いよぉ~ です。

でも今のところ読みたい本が次から次へと表れて、それが結構Tosyokanですぐに手に入って嬉々ききキキ状態でござる。
4.フィリップ・まろ (2008/11/03)
へいへい。

超ベテラン作家の書いた小説なので、文体はにしっかりとしたスタイルがあり、歴史考証の裏づけも時代背景の面でも抜群の説得力があります。
しかし何たって、中江与右衛門の病的な猜疑心が鼻につきます。
魅力ある人物になった下巻を期待するものであります。

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その日のまえに (文春文庫)

著者 : 重松 清

出版社:文藝春秋

発売日:2008-09-03

評価 :

完了日 : 2008年10月25日

あっ!この文庫本、つい最近に発売されたばかりなんだね。
ヤフオクでこの本と『疾走』と『小さき者へ』とを廉価でまとめ買いしたから、発売日がもう少し以前のものかと思っていた。
そういえば、「映画化決定!11月全国ロードショー 大林信彦監督作品」の帯がついていたっけ。しかもバリバリに美しい商品として送られてきていたな。

しかし僕が一度読むと、どうしていつもいつもこうまでも本がボロボロに傷むのかね。
速読がまるで効かず、読了するのに人の2倍以上は時間がかかるせいだろうか。
人が2時間程度お付き合いする本との関係を、僕は5時間も手放さないのが傷みの原因なんだろうね。
僕は著者にとっては、長い時間をかけてじっくりと読み込む良い読者である反面、本にとっては何時までもしがみ付いてページを開きっぱなしの悪い読者である、のかな。

『その日のまえに』は文庫判の帯のキャッチコピーによると「生と死、そして幸せを見つめる連作短編集」ということである。
はっきりと連作なのは「その日のまえに」「その日」「その日のあとで」の3作。
だが、独立した作品である「ひこうき雲」と「潮騒」のエピソードが「その日」の章と最終章の「その日のあとで」の中にうまく挿入されている。
短編として読んだものが、もう一度新しい物語の中に息を吹き返す。ちょっとしたお得感がある。
この手法で著者は後に『きみの友だち』を成功させている。

『その日のまえに』の「その日」とは、死を迎える日のことである。

小説構築の手法としては前述したように、『きみの友だち』が上げられるが、テーマは『カシオペアの丘で』が『その日のまえに』の延長線上に位置する。

そしてこれは極めて個人的見解ではあるが、小説手法上では『きみの友だち』に、また、テーマにおいては『カシオペアの丘で』に、僕は軍配を挙げる。
しかし、それは重松清の作家的成長であり、いずれも、作品として、より完成度が増した、ということに他ならない。

重松清は『きみの友だち』『カシオペアの丘で』を成功させるために、『その日のまえに』を書かなければならなかった。通過点として必須の作品であったのだろう。

両親のいづれかが不治の病に犯される。そのことを年端も行かない子供に告知する。なんと残酷な場面であろうか。僕は『カシオペアの丘で』でその場面を読んだ時、胸苦しいほどの絶望感とやるせなさが大きな塊となって突き上げてきたのを覚えている。小説の中の少年を力いっぱいぎゅっと抱きしめてあげたくなった。
『その日のまえに』ではケンとダイの兄弟だ。兄弟の違った二つの個性に合った母親の死の受け止め方に胸を締め付けられた。

この短編集をひとつひとつの独立した小説として読むならば、僕は「ヒア・カムズ・ザ・サン」が気に入った。
母と息子の母子家庭の話。化粧品の訪問販売をする母ちゃんが癌の宣告を受ける。そのことでお互いに悩み続けながらも直接面と向かって話すことは無い。そんな親子の間に駅前のストリートミュージシャンのカオルくんがいい具合に入り込んでくる。カオルくん、といっているが彼女は女性。主に教会音楽を弾き語る。そんな彼女に母ちゃんはビートルズのナンバー「ヒア・カムズ・ザ・サン」をリクエストする。母ちゃんは若い頃この曲を聴いて、息子が帰ってきた、という歌だと思っていた。「サン」違いである。

と、ここで僕が登場してしまう。
「ヒア・カムズ・ザ・サン」・・・「陽が差してきた」を「息子がやってきた」と勘違いした時、小説家は新しい物語のモチーフが一つ発見されたと感じたことだろう。
僕は短歌を少しやるが、こういう瞬間の嬉しいことよ。まさに「ヒア・カムズ・ザ・サン」である。

と、ここまで書いてきて、評価点を☆3つから、☆4つに昇格しちゃお。
感想としていろんなことがたくさん書けるってことは、それだけでも高く評価できる。

『その日のまえに』・・・その日。
僕は前に自分の母親が認知症に認定される日を「その日」としてとある地方自治体の主催する手紙文の公募に応じたことがある。
その日。「Xデイ」じゃなく「その日」。
人生のいろんな場面で、人それぞれの「その日」がある。
怯えたり、期待したり、泣いたり、笑ったりしながら、人は「その日」の到来をじっと待つほかは無い。


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